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因島サバイバル

尾道からフェリーで因島へ

尾道から因島にいこうとするのですが移動手段がわからなくてフェリーを調べたところ「瀬戸内クルージング」がありました。やっぱり尾道きたらフェリーのりたいですよね。
瀬戸内クルージング 尾道-瀬戸田 https://s-cruise.jp/timetable/

正確にいうと瀬戸田は因島ではなく生口島になります。そのためフェリーをつかうのであればいったん瀬戸田にわたって、生口島から因島に移動することになります。なぜ直接因島にいかないのか? 理由はこのあと読めばわかります。


瀬戸内クルージングで尾道からのると終点が生口島の瀬戸田になるわけで、少なくとも瀬戸田は栄えているというか、観光客が訪れる場所があります。タクシーやバスがあり、自転車もレンタルできます。今回自分がおかした失敗は、因島にいこうとして因島の重井東でフェリーを降りたことです。それこそがまちがいのはじまりでした。重井東からいざ因島に上陸したはいいが、数十メートルあるいてもなにもありません。あたりにあるのは大きな造船所だけ。あとは駐車場、海辺にせまった山と道路のみで見わたしても街がありません。
ひょっとしてここは労働者用の船場なのでは? とおもったほどです。そしてそのことに気づいたときはもう遅かったのです。船はすでに出発し、じぶんは置き去りにされてしまいました。しょうがないのでお店がある場所まで歩くことにしました。炎天下のなか徒歩を開始します。穏やかな瀬戸内海がせせら笑っているような気がしました。
三十分歩いてようやくバス停と人のすむ集落までたどりついたものの、繁華街らしきものはありません。家はあるが店がない。このあと一時間歩いたとして街が現れるのだろうか。不安が脳裏をかすめます。


と、そのとき、一台の軽自動車が路肩に停まりました。見るにみかねた老婦人が、手を振りながら車に乗れといいます。地獄に仏とはこのこと。ひとしきりお礼を言って、後部座席に乗りこみました。「どうしてこんなところ歩いているの?」と聞かれます。いやあと、苦笑い。「こんな(炎天下の)とこ歩いていたら、倒れますよ」そうですよね、と激しく同意。聞けばご婦人は歯医者にいく途中で、道の途中に因島の観光センターまで送ってくれるとのこと。いや助かった。因島の人はあたたかいですね。

因島を歩いてるときにふと気づくことがありました。謎の古民家をよく見かけるのです。よくみるとそれは純粋な「古民家」というわけでもなさそう。二階は土造りの蔵のようですが、一階は現代の和風住居になっています。壁や玄関、窓がいかにも現代のそれです。二階だけのこして一階を改築したのだとしたらどうやったのでしょう。というか、普通の民家でそういった改築ってするのでしょうか。ううん、謎だ。でもこういった建物いいですよね。二階の窓のかたちがかっこいいです。おなじ様式の家がちらほろあったので、庄屋さんかかつての有力者の家なのでしょうか。ひょっとして、村上一族にまつわる屋敷なのかな。

炎天下の因島をあるいていたとき、無心になれる瞬間があってそれなりにたのしかったです。孤島にとりのこされた気分というと語弊がありますが、なにも考えなくていいゆとりがあるのです。時間の流れが自然と同居しているかんじで心地よい。自然をそのまま感じられる場所って貴重ですよね。その要因の一つに島の特性があるかもしれません。島というのは物理的に陸地と遮断されているわけで、それがあたかも日常から隔離されたように感じます。なので自然のなかに没入できるのかもなと。

村上海賊の山城

因島でぜひいきたかった場所があります。それは村上海賊の城です。観光センターで自転車をレンタルすると、坂道をこいで山のてっぺんにある城をめざします。久しぶりに本気でペダルを踏みましたね。立ち漕ぎで太ももがパンパンになりました。
村上氏の瀬戸内一帯を支配した水軍にもかかわらず、その居城は急峻な山のなかにあります。小さなお城で大群が籠るわけではないですが、城の頂上から周辺をくまなく見わたすことができます。敵の侵入をいち早く察知するのが重要だったのでしょう。いかにも豪族らしさ山城でした。

これが広島の鯉城であれば、大名がたてた威風をほこる建築になるでしょう。堀をめぐらし、門と枡形で防備をほどこします。しかし村上一族は大名風の城になっていません。防備を考えると、すべてを見渡せる地の利をえらんでいます。城もどこかひっそりと見つからないように隠れてるふしがあります。しかも城を囲むように寺や屋敷が配置されており、有事の際には兵を潜ませておく準備がしてあります。
ここを拠点に選んだ理由はなんなのか。その時代に視点を追うとたのしいですね。

道をまちがえたこともあり、結果徒歩と自転車で因島を一周することになりました。自転車を漕ぎながら島のようすを見てまわったのですが、空き家はあるものの数は少なそうでした。市場に出回るほどではないですね。そもそも空き家が少ないというより、島の生活が自給自足として成り立っているのが大きい。
島の土地は平地がすくないことから水田もみあたらず、米がとれたとはおもえません。おそらく米は交易によって得ていたのでしょう。むかしから交易していて、必要なものは外から補充することで生活していたのではないでしょうか。こういったエリアは人口減少の影響がすくないとおもいます。人口が減っても急激に空き家がふえ、街が歯抜けになるリスクが少ないのです。拡大して都市になれないかわりに、空き家リスクも限定されます。
人口減少社会が到来したときに生きのこるのは、ひょっとしたら因島のようなエリアではないでしょうか。人口減少の耐性をそなえている。その意味では理想的な場所かもしれません。

人口が急激に増えないかわりに、減ったときの影響をうけない。百年単位で見た場合、こっちの方がサステナビリティが高いのでしょう。都市が広がらないから、縮小したときに縮むこともない。この逆説は、おもしろいですね。限られた土地に住み、点在する集落を船によってむすんぶことで生活してきたのが瀬戸内の暮らしなのかもしれません。米は取れなくても、中継地としての役割をはたし物資を調達すれば生活はなりたつのです。

そう考えれば、因島はとても賢い選択をしてきたの場所のようなきがします。江戸時代はどれくらにぎわっていたのか。当時の状況を見てみたいとおもいました。

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